清く正しくたくましく♪

関西出身・アラフィフ・おひとりさま、ろびんの日記です。旅日記を中心に、お出かけ・東京生活・美味しいもの・乳がんサバイバーの体調などなど、つらつらと綴っています

34年前の!初めてのインド旅行 絵日記公開【6】バラナシ(ベナレス)へ

★6日目:1990年3月2日(金)

 

今日でカルカッタは最後。

これからベナレスへ向かう。

午前中にチェックアウト、

滞在中、私たちをとってもかわいがってくれたホテルのマダムと

記念撮影をして別れる。

 

ハウラー駅まではタクシーで行ったのだが、

運ちゃんは片手がなかった(でも運転はすこぶるうまい)。

 

ハウラー駅に行く途中、フーグリー河というガンジス川の支流を超えるのだが

そこにかかるハウラーブリッジは実に巨大!!

 

到着したハウラー駅は、赤茶色のなかなか素敵な建物なのだが、

中に足を一歩踏み入れると、とてつもなくきたない。

また、相当に大きな駅で、活気に満ち満ちている。

普通の乗客に、毛布をかぶってところかまわずその辺に横になっている人、

赤服のポーター、チャイ売り屋など、人人人でごったがえしている。

 

インドの列車の一等車に予約を入れると、

その列車が入線するホームの表示板と、自分が乗り込む車両の入口に

自分の名前とシートナンバーがきちんとタイプされているのだが、

ホームの表示板には、確かに私たちの名前がタイプされていた。

(今から思えば個人情報駄々洩れやな笑)

 

ところが、結果、ホームに入って来たアムリトサルエキスプレスには、

私たちが予約した一等寝台車が連結されていなかったのだ!

そんな事実は想像だにせず、重たいリュックを背負いながら人をかきわけ、

ホームを何往復しても、2等車と一つ格が下のエアコン付き寝台車しか

見当たらない。

関係者に聞いても「これは一等車はつながれてないよ」という言葉が返ってくるだけ。

出発時間はせまってくるし(実際は30分くらい遅れたが)、

私たちの顔は顔面蒼白だったに違いない、

「どうした?どうした?」と駅員さんらしきおじさんたちが集まって来た。

ようやく自分たちの座席が見つかった。

2等寝台に予約が入っていたのだ。

なんで???という怒りと、不安(なんせ2等車だからね)と、

まあ、とにかく無事乗り込めたという安堵感。

 

ガタン・・・列車が動き出した。

ここは6人用のコンパートメント(つまり3段ベッド)。

窓には鉄格子、天井にはぐわーんと扇風機が回っている。

夜にはつくのだろう、はだか電球。

初インドの列車体験、なんだか言いようのない不安感でいっぱいだった。

夜には、ちゃんと6人用のコンパートメントになるみたいだが、

それまではなぜか、座席も、通路も列車内はほんとにすごい人。

トイレの前まで人がびっしり。

(どうしても我慢ができなくなってトイレに立った時は結構みんな

やさしく通路をあけてくれた)

ドアにしがみついて「モンキー」と呼ばれている人もいた。

 

途中のドゥルガープルという駅までの2~3時間、26歳だと言っていた

お兄さんたち数人と友達になった。

ヒンディー語と英語のちゃんぽんで話す。

親切にもバナナやチャイや落花生をおごってくれた。

で、そのお兄さんたちは、なんのためらいもなく

チャイの入っていた素焼きのうつわやバナナの皮を窓から投げ捨て

落花生のからを椅子の下にどんどん捨てる。

「いいんだよ、ほら捨てちゃえ、捨てちゃえ!」って。

 

彼らの話題は、お金のこと、恋愛や結婚のこと、職業のこと。

「結婚はしているか?」

「お父さんの職業は何か?」

「一緒に日本に連れて行ってくれ」

「僕たちのことをどう思うか」

(これには、Yちゃんがお兄ちゃんのようとうまく切り返してくれた)

でも歌の歌いっこをしたり、ミネラルウォーター一気飲みを披露してくれたり、

2等車ってのも面白いもんだ。

 

他にも、前に立っていたおじさんの抱いていた赤ちゃんがおもらしして

少しおしっこがかかってしまうハプニングもあった。

「リュックサックに鍵をかけたか」

「夜、腕時計をとられるから、泊まる駅では窓をあけるな」と

優しく忠告してくれる学生の人もいた。

体をぺったりとくっつけてくる痴漢おやじもいた。

あまりの混みように立っている場所がない人が上の寝台に上がり

Yちゃんのリュックを枕にくつろいでしまうこともあった。

時々「大丈夫か?」と聞きにきてくれる車掌さんもいた。

 

夜になった。

信じられないけど寒いのだ。

カーデガンを着てもほんまに寒い。

 

 

インド鉄道は、時刻通り全然走ってくれないけど

一応時刻表はあった。